そもそもおかしいと思っていた。
逃げながら芥川は考えた。
最初からして、おかしな話だったではないか。冷静になって考えてみれば、何が未来からやってきたであろうか。
私はアンドロイドである、という主張も今になって振り返ると馬鹿馬鹿しい。
それらの主張のどこにも証拠はなかった。
だというのにどうして信じてしまったのだろうか。
もつれそうになる足を無理やり前に出しながら、無我夢中で芥川は走った。走りながら芥川は、堰を切ったように止まらない思考に沈んでいた。
きっと相当切羽詰まっていたのだろう。
どうしても就職しなくては、という焦りが彼から冷静な判断力を奪っていた。
藁にもすがる思いで、このアンドロイドの言葉に耳を貸してしまったのだ。
今の自分の置かれた状況を打開してくれる秘策があるかもしれない。
もしくは何か面白いこと。
たとえ99%が嘘でも1%はそういった何かわくわくするものがあるのではないか。
そんなありもしないものを求めてしまった。
随分とお粗末な話である。
それにしてもいい加減にしてくれ。芥川はそう思った。しかし相手のアンドロイドもさるものであった。
先ほどから芥川は全力で走っているというのに、フェアギスマインは全く遠くに離れることはない。
こう見えて芥川は健脚である。足は相当早い方である。
だというのにフェアギスマインとの距離は、むしろ縮まる一方である。
こんな速さで走るアンドロイドがいるであろうか。そもそもアンドロイドでないにしても、こんな速さで走る女性がいるであろうか。
芥川は背筋が寒くなるのを感じた。
「――少しだけでも話を聞いてください」
後ろの方でフェアギスマインはそう言った。当たり前のように、息切れもせず。こちらは全力で走っているのに、向こうは余裕綽々らしい。
「これは私が独自で調べたことですが、成人している社会人のほとんどが労働を望んでいません。これはつまり労働の担い手を疲れを知らないアンドロイドが行うことで、人間は労働から解放され、より効率化されるということでしょう。そもそもロボットという言葉の語源は、労働という意味です。あなたが私のヒモになるのになんら罪悪感を感じる必要はないはずです」
罪悪感を覚える覚えないという話ではない、と芥川は口で反論する余裕もないので心のなかで反論した。
これは心の問題だ。
ヒモになっているときっと必ず心を蝕まれるだろう。芥川はそういう人間なのだ。
ヒモとして扱われヒモとして生きていくことに、自分で自分を許せなくなるタイプの人間なのだ。
もちろん男のほうが主夫として家庭を守り、妻がお金を稼ぐという家庭もあるであろう(厳密にはその家庭はヒモとは遥かに異なるのだが)。だがそれは、妻が働き夫が家庭を守るということに合意した夫婦の営みである。
前提として、芥川は働きたい人間である。
世間一般の社会人が働きたくないということと、芥川がヒモにならなきゃいけない理屈は別々のものである。
「というか、ヒモになれって、もしかして遠回しに婚約迫られてる……?」
「はい」
「うぉっ!」
独り言をつぶやいたつもりが、後ろからぬっ、と顔が出てきたので、芥川は短く叫んだ。
驚きのあまり足がもつれ、倒れそうになったところをフェアギスマインに捕まった。がくんと右手を引っ張られて、少しだけ芥川は痛いと感じた。
変な姿勢で二人は固まった。
「お、お前、しん、心臓に悪い」
「結婚することであなたの暗殺リスクをぐっと減らすことができます。私はあなたの身辺を合法的に、かつ効率的に警護できます。あなたは外出のリスクなどを最小化できます。結婚しましょう」
「コンサルの提案みたいに言われても」
射抜くような視線が、疲労困憊した芥川を貫いた。
全く曇りのない機械仕掛けの彼女の瞳。何を考えているのか分からない目である。だが嘘だけはついてないように見えた。
結婚してくれ。
そんなこと、こんな目で言われるなんて初めてであった。
そもそも結婚してくれなんて言われること自体が初めてではあったが、それにしてもこんなに真っ直ぐな目、人生で何度出くわしただろうか。
だが生憎。
がくりと脱力しそうなほど疲れながら、フェアギスマインに右手を握られて引っ張られながら、芥川は息を整えていた。
「あのさ、結婚の件だけど」
「はい。式場と日付はこちらの方で手配を――」
「俺、他に好きな人がいるんだけど」
「――――――――」
その瞬間面白いことが起きた。
あの鉄面皮だったアンドロイドが、がつんと頭を殴られたような顔をして唖然としている。
今なら逃げられるかも、というぐらいに、フェアギスマインは凍り付いていた。
芥川が就職をしたい理由は、クロタネ総研の取締役令嬢、金鳳花ニゲラのためである。
「芥川さん、クロタネグループの企業のどれかにでも就職できたら、私と付き合いましょう?」
ニゲラは、クロタネグループの中でも由緒正しい令嬢である。それ故に、付き合うにしても同じクロタネグループの人間でないとだめなのだという。
だから芥川は、ニゲラとはあくまで清い交際を続けていた。友達以上恋人未満。最も楽しく、最も歯がゆい関係で、大学生活の殆どを過ごした。
――そんなこんなで、芥川とフェアギスマインは、今ファミレスの一角に腰を落ち着けていた。
「昔、04_TOKYO区で人工知能のシンポジウムがあってさ、その時にニゲラって女の子と仲良くなったんだ。すっかり話し込んじゃってさ。お題は『対話型学習により人工知能は倫理を獲得できるか』ってこと。彼女はSNSのデータを引用すれば、模擬的に倫理観を獲得できるんじゃないかなって持論を説明してみたんだけどさ、それがとても面白くて面白くて」
「……」
「俺はそれにバイアスを与えることを提案したんだ。猫かわいい、和平党政権は許せない、ブラック企業あるある……そういったようにSNS受けするデータには一定のクラスタ傾向があるから、それぞれをクラスタリングして学習したほうが効率がいいって話。だって明らかに猫かわいいって話と政治の話は同列じゃないからね、同列に学習したら齟齬が出る。そしたらニゲラがとても食いついちゃってさ」
「……」
葬式のような顔をしている。
アンドロイドでもこんな表情をするのだな、と芥川は関係ないことを思った。
話を聞いているのか話を聞いてないのか分からないぐらいに、彼女の反応は薄かった。
「まあ、そういうわけだから、俺はクロタネグループの企業に何とか就職したいんだ。そしてニゲラとちゃんと付き合う」
「……」
「もしもし?」
「……」
しょんぼり、という言葉を芥川は思いついた。意気消沈という言い回しもある。しょげ返ってるという表現もあった。
どれも今のフェアギスマインにはお似合いであった。
「……何故、ニゲラさんなのですか」
「何故って言われても」
「私の顔は、『可愛い』母集団を生体信号の観点と感性情報処理の観点から系統的研究を重ねて作られ、感性工学と統計学的検定に基づいてモデリングされ、ユニバーサルデザイン化されてIEEE国際規格を満たす国際的可愛さの顔です」
「知らんがな」
「洗濯、料理、掃除、車の運転も、それぞれのアプリをインストールすることで高度に実現することができます。仕事だってそうです。有資格者しかできないような電気工事や危険物取扱も、ライセンスをインストールすることで実行できます」
「それでいいのか国家資格」
「私のほうが、可愛くて仕事もできます。何故ニゲラさんを選ぶのですか」
何を言い出すのか、突然。
そう思いつつも、芥川はとりあえず真面目に答えた。
「可愛くて仕事ができることは、付き合う理由じゃないからだよ。それに、俺にとってはニゲラのほうが可愛いよ」
「……」
ファミレスの室内が、少し寒くなった気がした。その理屈は分からなかったが、原因は何となくわかる気がした。
(続きます)